地震予知研究の歴史

 日本で地震の研究が始まったのは1880年(明治13年)に発生した横浜地震(マグニチュード5.8)がきっかけだった。地震の規模としては余り大きくないが、当時のお雇い外国人を大いに驚かせ、同年4月26日に日本地震学会が創立された。この後東京気象台が地震資料の収集や地震計を設置するなど地震に関する調査を開始している。東京帝国大学においても地震学講座が誕生し関谷清景が教授として担当した。このように日本地震学会、東京気象台、東京帝国大学の協力の下に日本の地震学が発展することになった。
 日本が国として地震研究に取り組み始めたのは1891年(明治24年)に発生した濃尾地震の直後であった。濃尾地震はマグニチュード8.0で岐阜県南西部の根尾谷断層を震源とし、濃尾平野を中心に岐阜県から愛知県に広い範囲に被害をもたらした。濃尾地震は内陸で発生する地震としては我が国最大級のもので、死者は7000人余り、全壊家屋は14万棟にも及ぶ大災害となった。この大災害を重く受け止めた明治政府は、震災予防調査会を設立した。震災予防調査会は地震の予知に向けた研究と強い揺れによる災害軽減の研究を進めていった。震災予防調査会では、主に帝国大学等の研究者が政府の研究費によって研究を進めており、震災予防調査会専任の研究者がいたわけではない。なお実際の定常的な地震観測は気象台が実施している。
 1923年(大正12年)、関東地震(マグニチュード7.9)が発生し、死者10万人以上という大災害をもたらした。この地震は相模湾を震源としたもので、1703年に発生した元禄地震から220年ぶりのものであった。この地震をきっかけとして、政府は震災予防調査会の研究業務を発展的に解消し、東京帝国大学に地震研究所を設置した。当初は定員6名という小所帯でスタートした。しかし専任の研究者を抱えたという意味で重要な出来事であった。
 その後太平洋戦争末期から戦後にかけて鳥取地震、東南海地震、三河地震、南海地震、福井地震など大地震が発生し、大きな被害をもたらした。しかしながら戦争のため日本には地震対策に乗り出す余力がなかった。
 戦後復興とともに、戦争中停止していた地震学会の活動も再開し、地震の研究も徐々に盛んになってきた。そんな中、1962年には地震研究者の有志により「地震予知?その現状と推進計画」が発表された。これは通称「地震予知ブループリント」とよばれているもので、地震予知の実現性を明らかにするためにはどのような観測が必要であるかを示したものである。このブループリントをきっかけとして、国の測地学審議会が地震予知計画に関する建議(国に対する提案)を出し、国としての地震予知研究が開始された。
 測地学審議会の建議にもとづく地震予知計画は1965年から始まり、第7次計画まで続いた。途中で東海地震説が発表され、東海地震予知のための監視体制が取られるなど、国民の地震予知に対する期待を受けて30年間計画が継続された。この計画の中で大学などの研究機関に観測網や研究組織が整備され、地震の研究が進むとともに多くの専門家が育った。しかしながら、地震の前兆現象の把握と解明を目指した研究計画は、十分な地震前兆観測例を得ることが出来ず、研究計画としての行き詰まりを迎えていた。また阪神淡路大震災の大災害により、国民が地震予知に対し期待に過剰していたことがわかり、計画の見直しが迫られた。
 地震調査研究推進本部を設立するなど、国が地震予知研究から地震防災研究に軸足を移していく中、地震研究者は地震予知研究の刷新を模索していた。新しい地震予知研究計画は、測地学審議会からの「地震予知のための新たな観測研究計画について」という建議として実現した。新しい研究計画は、地震の準備から発生に至る全過程を解明し、各種観測による地殻の状態のモニタリングと予測シミュレーションとを組み合わせて地震予知の実現を目指す研究計画となっている。計画は1998年から5カ年計画として実施され、現在はその2次計画が実施されている。
 次に日本の地震研究の分岐点となったいくつかの重要な事項について、詳しく見てみることにしよう。

1.濃尾地震と震災予防調査会

 日本の地震学研究は1891年の濃尾地震をきっかけに始まった。濃尾地震は明治政府が安定し日本の発展が本格的に始まった時期に発生した。日本の内陸で発生する地震としては最大級のものであり、被害も岐阜や大垣など濃尾平野北部を中心に甚大なものとなった。震源となった断層沿いや濃尾平野北部では木造家屋の倒壊率がほぼ100%となった地域もある。また当時名古屋には欧米から導入された煉瓦造りの建築物があったが、それらの建物にも大きな被害があった。
 このような大きな被害を重く受け止めた明治政府は、地震の翌年に震災予防調査会を設置した。これは震災を国家の災難と受け止め、地震防災の研究を国として行うべきと考えたからである。そのために建物の地震対策、地震発生頻度の高い地域には耐震強度の高い建物を建てる、地震予知の方法を考える、などが必要であるとし、日本の地震防災をいずれは世界に冠たるものにしたいという意気込みのものであった。震災予防調査会は内閣直属の機関として発足した。震災予防調査会の予算は主に研究費や設備購入費であり、実際の研究は大学などの機関に属する研究者が実施するというものであった。
 震災予防調査会の推進すべき研究事業としては第1回委員会の決議として以下のことが決められている。
1)地震、津波、噴火、破裂についての事実の収集 2)地震史の編纂 3)地質学的調査 4)地震動の性質に関する研究 5)地震動伝播速度の研究 6)地面の傾斜、「パルセーション」の測定 7)地上、地中の震動調査 8)磁力実測、等磁線作成、地磁気観測所の設置 9)地下温度測定 10)重力分布、測定、地殻抑圧の変化の研究 11)緯度の変位の観測、水準の変遷調査、地歪の前進視察 12)構造材料の強弱試験 13)耐震家屋を地震多発地帯への普及 14)構造物雛形による人為震動の試験 15)構造物のうち、震災に関係あるものの事前調査 16)地盤ごとの地震動比較測定 17)地震動の遮断の試験
 このうち1)から11)までが地震のしくみの研究に関するものである。今から見るとずいぶんおかしなものも含まれるが、この時代は地震の原因が地下の断層の動きであることはおろか、地震の震源決定さえままならない時代であったことを考えれば仕方ない。震災予防調査会は地震の予知も研究の目的に入っていたが、そもそも地震のしくみもわからない時代であったため、それを知るための基礎的な研究が提案されている。
 残りは建物の耐震に関する研究項目である。地震のしくみは分からなくても、建物を地震の揺れに強くする必要があることは自明であったためか、現在の対策に共通する研究項目が列挙されている。建物の材料の強度試験、実際に建物を揺する試験、地盤の影響などが挙げられている。特に地震動の遮断というように現在の免震に通じる研究の必要性が既に挙げられているのは驚きである。 

2.大正関東地震と東京大学地震研究所

 1923年(大正12年)関東地震が発生し、首都圏に大災害をもたらした。この未曾有の大災害をきっかけとして、大正14年(1925年)に東京帝国大学に地震研究所が設置された。地震研究所は震災予防調査会の事業を引き継いだ。特定の研究組織を持たなかった震災予防調査会から専任の研究スタッフをそろえた研究所へ、日本の地震研究の中心が移ったことに意義がある。地震研究所の使命は「地震に関する諸現象の科学的研究と直接または間接に地震に起因する予防と軽減方策とである。」と、創立10周年を機に、寺田寅彦によって撰せられた、銅版の碑文に記されている。この銅板の碑文はいまも地震研究所の玄関に掲げられている。
 創立当時の地震研究所は定員6名で始まったが、実際の人員としては14名の研究所として発足している。当時どのような研究所を目指したかは、研究所員とそれぞれの研究題目を見ると明らかになる。
1)地震計測器の研究(石本巳四雄)、2)地震観測の整備、地震計の改良、微傾斜観測水準変動(今村明恒)、3)構造物耐火試験、建築物の震動(内田祥三)、4)中央気象台における研究(岡田武松)、5)構造物試験及び模型実験(末廣恭二)、6)地殻及地震波の弾性力学的研究(妹沢克惟)、7)地形調査(多田文雄)、8)火山調査、岩石閲履歴的研究(坪井誠太郎)、9)弾性波の生成及波及の実験(寺田寅彦)、10)高圧下の岩石の性質(長岡半太郎)、11)捩、皺、庇割の研究(藤原咲平)、12)材料強弱研究(物部長穂)、13)地形調査(山崎直方)
 設立当初は以下のような研究内容および布陣で臨んでいる。これらを見ると地震研究所の研究として、地震観測、地震や火山の基礎的研究にならんで建物の耐震に関する研究も見られる。これらの研究内容は現在の地震研究所に共通する点が多い。地震研究所の研究方針の基礎は設立の時に固まったと言えよう。
 なお、創立から80年を経た現在の地震研究所は約100人の教員(教授・助教授・助手)を擁し、4部門と5センターからなる日本最大の地震研究組織となっている。

3.地震予知「ブループリント」

 地震研究所が設立されたものの、地震観測および地震の基礎研究に勢力が注がれ、地震予知研究は殆どされてきていなかった。第2次世界大戦後、地震学の発展と国民の願望を受けて、地震研究者有志によって地震予知研究が議論されるようになった。その結果として「地震予知?現状とその推進計画」が1962年1月に発表された。これがいわゆる地震予知ブループリントである。
 地震予知ブループリントでは、地震の予知を目指した観測について、種類・方法・規模について提言をしている。そしてそれらが実現すれば、10年で地震予知がいつ実現するかについて十分な確度で答えることが出来るとしている。
 実際に地震予知ブループリントで提言している観測とその目的は次のようなものである。
1)測地的方法による地殻変動の調査
 全国規模の水準測量や三角測量を少なくとも5から10年間隔で行うことにより、進行しつつある日本列島の地殻変動の様子を捉えることを目指す。
2)地殻変動検出のための検潮場の整備
 海水面は比較的安定した基準面と見なすことが出来るので、全国の海岸で潮位を計測することにより海岸付近における地殻変動も常時監視することが出来る。
3)地殻変動の連続観測
 測地的方法では測定間隔がどうしても長くなるため、伸縮計、傾斜計等の観測装置を整備し、連続観測を行う。測地的方法が全国にわたる地殻変動を捉えるのに対し、連続観測では1点における地殻変動を連続で計測する。
4)地震活動の調査
 大地震から微小地震に至るまで、幅広い規模の地震活動を把握するために全国に地震計を整備する。小さな地震ほど発生頻度が大きいので比較的短時間で全国の地震活動の特徴を把握することが出来る。もしも微少な地震と大地震との間に関連が見いだされれば直ちに地震予知につながることになる。
5)爆破地震による地震波速度の観測
 地震の前に地震波速度が変化するという報告を検証するために、時刻精度の高い人工地震(爆破)の観測を行う。
6)活断層の調査
 活断層は、過去に何度も地震を発生させた場所なので、過去の地震履歴を知るために活断層を地形学的に調査する。
7)地磁気・地電流の調査
 地震の前駆現象として地磁気や地電流の変化の研究の数は多い。しかし両者を関係づける統計的吟味などが不十分であるため、はっきりした結論が得られていない。そのため場所を選定して地磁気・地電流の観測点を設置し、反復測定をする。
 このような計画がブループリントで提案されている。これらの計画を現在の観測網と比べてみる。1)と3)に関してはGPSによる全国1200点の観測網が完成し、測地的方法によってほぼ連続した観測が行えるようになっている。観測の分解能という点ではいまだに地殻変動連続観測が優っているが、精度や信頼性でははるかにGPSがしのいでいる。2)の検潮場も気象庁・国土地理院・海上保安庁によって整備され、現在はデータベースの一元化にむけて作業が行われている。4)についても全国700点の高感度地震観測網の整備と気象庁による震源の一元化処理によって完成している。6)の活断層の調査は政府の地震調査推進本部により全国98活断層の調査が実施され、地震発生確率として発表されている。
 一方5)の地震波速度の変化の測定については、その後の否定的な論文の相次ぐ発表もあって、現在では行われていない。ただし、アクロスという精密で連続な正弦波を出す震源によって地下の地震波伝播特性の監視が行われようとしている。7)についても地磁気・地電流変化と地震との関係を議論している研究は多いものの未だにその関連ははっきりしないのが現状である。
 ブループリントで計画は、地震波速度や電磁気をのぞき、ほぼ理想的な形で実現されている。これらの観測記録からわれわれはどの程度の確度を持って地震予知の可能性を述べることが出来るのだろうか。

4.地震予知計画

 1962年1月に発表された「地震予知ブループリント」を受けて、測地学審議会が1964年に「地震予知研究計画の実施について」という建議(政府に対する提案)を出した。その後1968年に出された建議からは「地震予知の推進に関する計画の実施について」というように「研究」という文字がはずれ、1993年の建議である「第7次地震予知計画の推進について」まで継続された。これらの計画は「業務として地震警報を出す」という地震予知の実用化を目指して、地震の前兆現象の把握とその解明を目的としていた。
 1965年の第1次計画がスタートした直後には、社会的に注目された地震が発生した。1965年8月から始まった松代群発地震では、最盛期には1日の有感地震が661回に上るなど、その激しい活動と、なによりその原因が分からないという不安から大きな社会問題になった。また1968年5月には十勝沖地震(M7.9)が発生するなど、地震が社会の大きな関心を呼んだ時期と重なっている。このため、政府は地震予知を強力に推進することにし、第1次の5カ年計画を4年で打ち切り、第2次計画を1969年からスタートさせることになった。以下に第1次計画から第7次計画までの計画概要を整理する。
 第1次計画(1965~1968)は、ブループリントで提案された地震予知研究を推進するための体制作りを目指すものであった。三角測量や水準測量による地殻変動調査、検潮場の整備、地殻変動の連続観測、地震観測、地震波速度の観測、活断層調査、地磁気・地電流の調査など、ブループリントの計画が次々と実施されていった。また大学での講座・部門の増設や、観測網の整備が行われた。
 第2次計画(1969~1973)では、測量や地殻変動連続観測による地殻変動の把握、地震観測による地震活動の把握など、第1次計画で手をつけられた地震予知体制のさらなる整備がなされた。1969年には観測研究機関相互の情報交換と地震情報の総合的判断を行うため、「地震予知連絡会」が設置された。予知連絡会では、重点的に観測研究を行う地域として「特定観測地域」及び「観測強化地域」を指定した。大学には「観測センター」が設置され、地域を分担して日本全国の観測研究を行う体制ができた。研究項目としても、首都圏の深井戸観測や岩石破壊実験が加えられた。
 第3次計画(1974~1979)は、第2次計画で展開された観測計画のさらなる推進と、日々増大しつつあるデータの処理の強化が行われた。この意味では第2次計画の継続的発展として位置づけられる。しかし、伊豆半島周辺の地震活動や南関東での異常地殻変動をきっかけとして、2度にわたって計画が見直された。
 第3次計画見直し(1975)では、従来の観測研究のなかでも特に推進すべきものや、従来に加えて推進すべき研究項目が提示されている。従来の研究項目のうちより推進すべきものとしては、海底地震観測や地殻応力測定の開発研究が挙げられている。また従来の研究項目に加え、地震発生過程の理論的観測的研究、地下水に関する研究、電気比抵抗変化等に関する研究、重力変化の精密測定等が挙げられている。これらは現在でも地震予知研究のフロンティアとなっている。
 第3次計画の再見直し(1976)は前年度に行われた見直しの直後である。これは1976年に発表された東海地震説を受けたものであり、そのため、この見直しにおいても業務観測体制の整備拡充が謳われている。それ以外にこの見直しでは、長期的地震予知と短期的地震予知という概念が初めて用いられ、それぞれに必要な観測体制が示されている。特に短期的地震予知のために、気象庁を中心とした常時観測体制の整備や、異常が観測された地域における機動的な観測体制を整えることの必要性が述べられている。これと同時に特に東海地域における短期的地震予知のための判断に対応できる組織が必要であるとされている。これを受けて、1977年4月に地震予知連絡会に東海地域判定会が設置された。この機能は後に気象庁に移されることになる。つづく1978年には大規模地震対策特別措置法が施行されている。また1978年1月の伊豆大島近海地震(M7.0)は、東海地震の観測のために強化された観測網の中で発生し、顕著な前震以外にもラドン濃度、地下水位、地殻変動連続観測に前兆的と思える異常がとらえられた。
 この見直しによって、地震予知の実用化のためにはまだ解決すべき問題が多いことを認めながらも、一方で東海地震予知のための実用的組織が動き出すという大きな変革があった時期である。
 第4次計画(1979~1983)では長期的予知および短期的予知が研究の中心に据えられた。長期的予知とは「場所」と「規模」を知るための観測研究とされ、そのために、従来からの測地観測、地震観測、地磁気観測、地震波速度変化の観測などが行われた。その上で、「時期」を知るための短期的予知の観測研究としては、高密度で短期間の繰り返し測量、地殻変動連続観測、地震観測、地球電磁気観測、地下水観測が行われている。これだけたくさんの種類の観測を短期予知のための観測としているのは、地震の前兆現象の出現が複雑多岐にわたると認識されてきたからであろう。そのような観測と平行して、岩石破壊実験、地殻応力測定、地殻構造探査などの基礎的研究が重要視されてきた。第4次計画の期間には、地震予知連絡会にあった東海地域判定会は、気象庁に設置された「地震防災対策強化地域判定会」に役割を譲った。
 第5次計画(1984~1988)では、第4次計画で前面に出された「長期的予知」と「短期的予知」を中心とした観測研究が継承された。長期的予知に関しては、全国を対象とした比較的基盤的な観測と、特定の地域を対象とした集中的で研究的な観測に区分した。また1978年の伊豆大島近海地震の前に現れた変化を前兆とみなし、それ以外にもいくつか前兆と考えられる変化を捉えたこともあって、短期的地震予知には明るい見通しを持っていた時期であった。観測技術にもVLBIという宇宙技術が導入され、また活断層調査などにより内陸地震の繰り返しに関する知識も増大した。一方、これまで行われてきた地震波速度変化の測定は、変化が検出されなかった、として中止された。
 第6次計画(1989~1993)もやはり、第5次計画と同様「長期的予知」と「短期的予知」という考え方を踏襲している。長期的な予知を目的とした観測を実施するものの、異常が検出された地域において集中した観測を行い、「時期」を特定するための集中的な観測をするとしている。この計画の期間には、基礎研究として内陸地震の解明のために地域を決めて総合的な集中観測が行われるようになった。またGPSに代表される宇宙技術が積極的に導入され、広域の地殻変動の連続的な高精度観測が巻頭となったのもこの時期である。また1989年に発生した伊東沖の海底噴火によって、伊豆半島東部で発生していた群発地震の原因がマグマの上昇によることがはっきりし、マグマの上昇が傾斜の連続観測や地震観測によってモニターできる様になった。
 第7次計画(1994~1998)でも、やはり「長期的予知」と「短期的予知」という考えを踏襲しているものの、広域の観測研究や東海地域などの強化地域の観測を基本となる観測研究と位置づけ、その上でプレート境界や内陸地震のポテンシャル評価などの基礎的な研究を行うとしている。ポテンシャル評価とは、一言で言えば、現在が地震サイクルのどの時点にあるかということを調べることである。この調査は、現在では地震調査委員会の長期評価に引き継がれ、全国の活断層やプレート境界における地震の発生確率として公表されている。この計画期間には、平穏だった第6次計画期間と対照的に、重大な地震が多発している。計画が開始する前年の1993年に発生した北海道南西沖地震(M7.8)で、奥尻島が大津波に襲われたのを皮切りに、1994年10月の北海道東方沖地震(M8.1)、同年12月の三陸はるか沖地震(M7.5)、1995年1月の兵庫県南部地震(M7.2)が発生した。特に兵庫県南部地震では6000名を越える尊い命が失われ、地震防災対策の主軸が、予知から災害軽減へと移されるきっかけとなった。

5.阪神淡路大震災と新しい地震予知研究計画

 第7次地震予知計画は結局1998年まで継続された。7次にわたる地震予知計画を振り返ってみると、前兆的異常現象の把握と解明を全面に掲げながらも、その困難さを徐々に認識し、次第に基礎的な研究へと軸足を移していった様子が明らかになる。とくに第7次計画では、後の長期評価につながるポテンシャル評価という考え方が現れたり、内陸地震発生域での総合的集中観測によって地震の発生場を解明しようという野心的な観測研究が行われていた。室内実験においても、岩石すべり実験によって、地震の前兆現象の発現機構を明らかにしようとする研究も急速に進められていた。
 しかし、依然として計画そのものは前兆現象の把握と解明によって地震予知を目指す計画になっていた。それにもかかわらず、信頼できる前兆現象はほとんど見つからず、研究計画の建前そのものに無理が生じていた。その端的な例は1991年に地震予知研究協議会によって発行された地震予知のパンフレットに現れている。このパンフレットにおいて典型的な前兆現象として取り上げられているのは1978年の伊豆大島近海地震の全庁的変化である。裏を返せば、それ以降信頼できる前兆現象は捉えられていないと言うことを示している。
 一方、前兆現象の把握はまだ研究途上であり、実際の地震予知は東海地震以外は困難であるという認識は必ずしも一般国民には伝わっていなかった。上記のパンフレットを読んでも、全体として前兆現象の解明が進んで地震予知に向けて着実に進んでいるという印象を受けるものになっている。また活断層の密集地域である関西において、地震が起きないという根拠のない思いこみが流布していたなど、地震予知研究の科学的成果を一般国民に正しく理解する努力が行われてこなかった。
 そのような背景の中、地震防災対策が不十分だった神戸を中心として阪神淡路大震災が発生した。この大災害をきっかけとして地震予知研究者は従来の地震予知計画の行き詰まりを認め、あるべき地震予知研究を模索し始めた。
 新しい研究計画は全国の地震研究者の有志により、「新地震予知研究計画?21世紀に向けたサイエンスプラン」として1998年5月に発表された。この計画では、大地震の発生を予測するシステムの構築を目指すという大目標を掲げている。予測システムとは、地震発生に至る準備過程を定量的に逐次予測するとともに、観測によって検証し、予測の誤差を徐々に狭めていって予測の信頼性を高めていくというものである。そのためには1)地震発生に至る地殻活動の全過程と、それに伴って発生する様々な地殻活動発生メカニズムの解明、2)絶えず活動を続ける地殻の状態と活動を常時観測し、推移予測のための基盤となる地殻活動データを得るためのモニタリングシステム、3)地殻活動を定量的に予測するためのシミュレーションシステムの開発が必要とされている。
 この考えを元に1998年から「地震予知のための新たな観測研究計画」が開始された。2003年からは「地震予知のための新たな観測研究計画(第2次)」として、基本的な考え方が継続されている。この計画の中で、プレート境界の巨大地震は、一つまたは複数のアスペリティの破壊によって発生する、という「アスペリティモデル」が確立してきた。アスペリティとは、プレート境界面において、普段は固着しているものの、地震時には急激に滑って地震を発生させる領域である。アスペリティは普段からゆっくりと滑る領域に囲まれていて、それらのゆっくりと下すべりによって徐々にアスペリティに応力が蓄積されていると見なされている。このアスペリティモデルは、定性的わかりやすいと同時に摩擦の構成則という定量的な方程式でも表現されるという特徴がある。その結果としてシミュレーションで扱うことが可能になる。
 このように130年近くにわたる日本の地震予知研究の歴史を振り返ると、先人達の苦悩と進歩の歴史が見て取れる。地震予知そのものは依然としてまだ夢ではあるが、夢に向かって着実に進んでいることだけは確かである。それとともに、地震の長期評価や緊急地震速報なども地震予知のたゆまざる研究から生み出されたものであり、直接に防災に役立つ成果も得られている。