古和浦公民館館長のお話
 南島町の古和浦は、戸数50戸、リアス式海岸で景観がすばらしい場所です。けれども昔から、村が無くなるような大きな地震・津波に襲われています。宝永地震の津波、安政地震の津波です。
 過去の津波では80人の人が亡くなったという銅板に刻まれたものが集落のお寺に残っています。また150戸全部流されたという言い伝えもあります。津波が去ったあと、山奥の岩穴に伊勢エビがいたといわれていて、そこはエビ穴とも呼ばれています。
 今年も防災訓練が終わりましたが、91歳の古老は「防災訓練も終わったが、自分が生きているうちに、もう一度津波に遭うように感じる」と言っています。

 そして昭和の東南海地震です。
 昭和19年12月7日  当時私は16歳でした。だんだん戦況がが厳しくなり、B29がサイパン島から日本上空を通過して名古屋方面の爆撃に向かっていきます。村に残るのは、老人・子供・女性です。収穫できる食物も十分でなく、半年しか自給できない状況でした。私たちは魚と米を物々交換をして戻ってくるような状況でした。
 飛行機の爆音とは異なる音がしました。地震でした。建具を開けておけ!と姉に言われ、外へ出ました。地震発生から15分で古和浦のほとんどが津波で水没しました。私の自宅は山の中腹にあり、家から街を眺めていました。地震の後、下から人々が坂を上ってきました。
 津波で家が流れたりしました。津波がやってくる前に古和浦の海水が引いていきました。堤防の石垣の下まで干上がっていました。家にものを取りに帰ったおばあさんは津波で亡くなりました。
        (註)三重県の計算ではまず押し波となっている。
 津波は、海が潮で一杯になってずんずん増えていきました。2階建ての家も流されて、壊されていきました。港につながれていた船が家に当たると、家が倒れ、流されていきました。船も家の間をどんどん流され、進んでいきます。潮が引いていくとき、石垣からを水が滝のように落ちていきました。その中をさお一本で助かった老人もいました。人も、牛も、馬も流れていきます。馬のしっぽにつかまっていて助かった人もいます。
 夜、家に避難してきた人たちにおにぎりが配られました。家が流された人だけが一人2つ。不公平だと思いました。板もない、釘もない、棺を作れない。魚を入れる箱に遺体を入れて土葬にしました。1週間かかりました。
 家の修理にも順番がありました。まず戦死者の家、出征兵士の家から補修されました。若者は来る日も来る日も家の補修をしました。冬の寒さで氷の張った土を足で踏んで軟らかくしましたが、足がしもやけでふくれてしまいました。そこでしばらく仕事を免除してもらったが、直ったらまた始めました。
 津波がなければ違った人生を過ごしていたでしょう。津波が若い時代を流していったのです。